もっとのんびり暮らしたいけど

セミリタイアを夢みて試行錯誤する記録

中学受験の思い出、教育費に関する私見など

 

さかのぼること、33年前の本日2月1日から2月3日にかけて、私は中学受験をしました。

 

33年前の2月1日は、大雪でした。

 

1日は、まだ夜もあけない暗いうちに、だれも歩いていないかなりつもった雪をふみしめ、母につれられ、ある女子大の附属中学を受験しました。

 

2日は、ある女子短大の附属中学を受験。こちらは、中学校から英語と一緒にフランス語を習う、というカトリックの学校です。

 

3日は、ある男女共学の幼稚園から高校までしかない一応、進学校とされていた中学を受験。といっても、当時は偏差値50くらいでしたので、全く難関校ではありません。

 

1日目の学校は不合格、カトリックの女子短大附属中学と、男女共学の進学校は合格で、結果的に、父の意向で通学するときにカトリックの女子短大附属中学はラッシュで大変だから、と男女共学の学校に通うことになりました。

 

中学受験をすることは、私の両親が決めました。

 

両親から見ても、私は、勉強は若干できるが、公立中学校の先生に気にいられるタイプではなく、内申点は低いだろうから、私立に行って勉強して、推薦ではなく、一発勝負で良い大学に受かれ!と言われました。

 

当時の小学校は、体罰というか教師による理不尽な暴行が横行していましたし、ろくでもない先生が多かったのもあり、私立なら殴る先生はいないから、と親に言われて、そういうものか、と思いました。

 

生徒全員を教室の床に正座させ、朝礼のときに列が乱れていて先生は恥をかかされた!などという理由で、その教師がとくに気に入らない児童を名指しして、殴り倒す、という、今なら新聞沙汰なことが毎週のように行われていたのです。

 

 

小学生だった私は、先生、体罰はやめてください、と訴えましたが、教師は、体罰ではなく、愛のムチですよ、とニヤニヤしていました。

 

 

私の真っ当な訴えは、教師には届きませんでしたが、あるときから、その教師による私への体罰はなくなりました。

 

それは、私の親が、その教師の自宅あてに、高級ワインと日本酒を贈ったからでした。

 

その体罰教師は、のちに校長になり、現在は、天下りで児童保護施設に勤務しています。

 

 

話がそれましたが、私は私立中学に通い、そこでは先生に殴られる、ということはありませんでした。

 

たまたま恵まれただけかもしれませんが、先生たちは若く、熱心で、情熱をもって接してくれました。

 

数年ほど前、うつ病で一年間休職し、いろいろ悩んでいたときに、母校を訪れましたが、担任だった先生たちは、理事長、学園長となっていましたが、暖かく迎えてくれ、時間をさいて相談にのってくれました。

 

私には、どちらかといえば、公立よりは私立があっていたと思います。

 

私の親は、教育費をたっぷりかけてくれましたが、社会人になってから、私にかけられた費用分は、自分で稼ぎだすことができたと思います。

 

もし、自分にかけられた教育費分さえ、自分で稼げなかったら、私の性格からして、自分を責めていたと思います。

 

セミリタイアすることは決めていますが、その点では、働いてお金を稼ぐ人生でよかったと思います。