私は大学時代に、弁論部に所属していました。
大学生の弁論部としては、一番歴史のある部だったようです。
花井卓蔵という、有名な弁護士が創部した部です。
もともと人前で話すことは、好きではなかったのですが、弁論、ディベートサークルとして、新入生勧誘をしていたのです。
当時、地下鉄サリン事件を起こした宗教団体の、青い服を着ていた広報担当の彼が、TVで騒がれていました。
よく、あんなにペラペラ喋れるな、と、彼がやっていたディベートというものに、興味があり、入部しました。
やってみてすぐわかりましたが、ディベートは好きになれませんでした。
面倒見のよい野心家の先輩たちや、今まで接したことのないハングリー精神あふれる同級生に囲まれ、私はあっというまに、弁論にのめりこんでいきました。
弁論大会に参加し、キャンパスの中にある丘で発生練習を行い、ときには、駅前などで遊説とよばれる街頭演説を行いました。
弁論大会に出ると、さまざまな賞をいただきました。これは、私の能力が高かったわけではなく、弁論部は、男子学生の比率が高く、女子学生というだけで着目されたことによります。
もらった賞は、審査員特別賞、という類いが多かったです。
花井卓蔵先生は、「子曰く、辞、達するのみ」ということばを引用されていました。
これは、話したことが相手の心に伝わらないと意味がない、という意味だと私は理解しました。
つまり、論破することは、弁論を学んだ者としては、最もふさわしくない、恥ずべきことにあたるのです。
詭弁も同様です。
論破された相手は、いくら私が正論を言っているとしても、私の言うことに拒否感しか抱かないと思います。
弁論は、日常生活におきかえると、会話では、最後には、語った人の人格が発露されることが大切です。
つまり、自分の人格を高め、発露されても恥ずかしくないように向上していく努力が必要である、ということが、私が弁論部で学んだことになります。
残念ながら、私の人格は、全く向上してはいません。
理不尽な相手を、論破したくなることが多々あります。
しかし論破しても、後に残るのは虚しさです。
理不尽な相手と接したくないことも、セミリタイアしたい大きな理由のひとつです。